リチャード・コブデン
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イギリス政治家リチャード・コブデンRichard Cobden
1863年のコブデン
生年月日1804年6月3日
出生地 イギリスイングランドサセックス・ミッドハースト(英語版)郊外ダンフォード
没年月日 (1865-04-02) 1865年4月2日(60歳没)
死没地 イギリス・イングランド・ロンドンウェストミンスター・サフォーク通り
所属政党急進派(英語版)→自由党
庶民院議員
選挙区ストックポート選挙区(英語版)
ヨークシャー西リディング選挙区(英語版)
ロッチデール選挙区(英語版)[1]
在任期間1841年6月29日 - 1847年7月29日
1847年7月29日 - 1857年3月27日
1859年4月28日 - 1865年4月2日[1]
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リチャード・コブデン(英語: Richard Cobden、1804年6月3日 - 1865年4月2日)は、イギリスの政治家、実業家。

マンチェスターの実業家として成功し、熱心な自由貿易主義者となり、ジョン・ブライトとともに反穀物法同盟の中心人物となる。1841年庶民院議員に当選し、自由主義者の中でも急進派(英語版)の政治家となる。反穀物法運動の機運を高めて、1846年穀物法廃止への環境作りに貢献した。その後、クリミア戦争アロー戦争の反戦運動を行った。1860年には英仏通商条約(英語版)の締結に尽力した。
経歴
生い立ち

1804年6月3日サセックス・ミッドハースト(英語版)郊外のダンフォード(Dunford)に零落自作農ウィリアム・コブデンの第11子4男として生まれる[2][3]

若い頃には貧困に苦しんだが、叔父の支援でヨークシャーの学校に通った。学校では友人は一人もできず、教師からは拷問され、ひたすら地理書を読み漁る日々だったという[2]
叔父のもとで働く

1819年に15歳で学業を終え、叔父がロンドンで経営している倉庫業の書記に就職した。この際に経済学の本に関心を持ち、特にアダム・スミスの『諸国民の富』から大きな影響を受けた[2]

叔父からもその知識と雄弁を評価されるようになり、書記からビジネスマンに転じた。マンチェスターバーミンガム、時にはアイルランドにも足を運んで麻布や木綿布の注文をとった。こうした商人たちとの交渉を通じて実業家としての才能を磨いていった[4]
実業家として

1826年に叔父の倉庫業が倒産して失業したが、1828年には友人とともにマンチェスターでキャラコ染の事業を始めた。マンチェスターのフォート社の信用を得たことからその事業は成功をおさめた[4]

特に1831年ブラックバーンに近いサブデン(英語版)にキャラコ染工場を所有するようになってから事業は軌道に乗った。1836年までには純利益2万3000ポンドを超えるに至った[5]

海外にも事業を拡げ、仕事でフランススイスアメリカなどを訪問した。特にアメリカでは、アメリカ人の新進気鋭さ、精神的活力、市場の活気さに強い影響を受けたという。イギリスでは製造物が製造され、アメリカでは農産物が生産される。したがって双方の人民の交易が進めば双方に大きな繁栄があるとの確信を持つに至った[6]
反穀物法同盟ロンドン・エクセター・ホールで開かれた反穀物法同盟の集会を描いた絵画

1838年9月24日にマンチェスターのヨーク・ホテルで「マンチェスター反穀物法同盟」が創設された。創設者7人の中にコブデンの名はなかったが、翌10月には彼も協会の委員会に入っている。12月13日の総会での演説が雄弁であったことで人々から注目されるようになった[7]

同運動は産業資本家を中核として爆発的に広がり、1839年にはマンチェスターに限らず、全国運動となった。やがてコブデンはジョン・ブライトとともに同組織の中心人物となった[8]

コブデンら反穀物法協会は至るところに代表を送り、穀物法を撤廃して穀物を自由貿易にすれば製造業者や労働者に大きな利益があることを訴え続けた。穀物法が撤廃されれば食料が安くなり、ひいては人件費が安くなり、ひいては諸製品の原価が安くなり、ひいては輸出価格が安くなり、世界市場が拡大するという主張である[7]
庶民院議員に当選し、穀物法廃止を実現

1841年6月の総選挙(英語版)でストックポート選挙区(英語版)から立候補して当選を果たし、急進派(英語版)の庶民院議員となる[9]

この総選挙は保守党の勝利に終わり、保守党政権の第二次ピール内閣が発足した。保守党は地主の議員が多く、穀物法廃止に否定的と思われていたが、ピール首相はコブデンら穀物法廃止を求める世論に影響されて穀物法廃止に傾いていた。コブデンらはピールに圧力をかけるべく反穀物法運動の一層の盛り上げに努めた[9]

コブデンは穀物法廃止の機運を資本家だけでなく労働者層にも広げるべく、議会において「食料価格と賃金との連動性」についてこれまでの主張を修正する議論を展開するようになった。たとえば議員になった直後には「パンの価格が下がっても必ずしも賃金が下がるとは限らない。イギリスが穀物法を廃止し、その結果他の農業国から大量の穀物がイギリスに輸出されれば、それとの交換でイギリス産の金物類・衣料を購入するようになり、イギリスは輸出市場は拡大するだろう。結果そのような製品の生産が増大し、その産業に従事する労働者の賃金が減ることはない」と演説している[10]。また農業労働者の不安も鎮めるため、1844年には「穀物の自由化が地主の耕地の生産性も増大させる。このことは農業労働力を減少させるかもしれないが、その結果として都市の労働市場は拡大し、彼らの雇用も増大し、一般的にいって彼らの賃金は増大するであろう」と演説した[11]


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